多種多様

 何とはなしに閉塞感が強くなってきている気がする。 その一つに毛色の違う人をのけ者にしたり、排除しようとするところに原因があるような気がする。 少し変わった人たちをKYとして、暗黙の内にのけ者にしたり、笑ったり、いじめたりして集団から排除してしまう。 今はそういう志向を持った社会である。 ミッシェル・フーコーは近代の合理的な社会は毛色の変わった変人とか狂人を非合理的なものとして隔離することによって成立している社会である、と言った。 
 オフがまだ若かった頃は、その社会の中にはおかしな人や変人がけっこういて、それらの人はそれだからこそ誰もが知っているある意味では<有名人>であった。 オフの田舎では、たとえばカゴ屋のトシ子とか、チンコのトウチャンと言えばそこらでは知らない人がいない<有名人>であった。
 今はそのような人はあらかじめ隔離されたり、排除されたりしている。 排除されて社会が成り立っているとも言える。 たしかにそのように<有名人>であることはある意味で大変なことでもあった。 子供たちからその姿を見るだけで、カゴ屋のトシ子!と囃されて面白がられてバカにされていたからだ。 だが、はたしてそのようなことは彼や彼女らにとって不幸なことだけだったと言えるろうか? 彼らはどうであれ、彼らの存在をその社会から疎外されていることはなく、逆に誰からも認知されて全面的に受け入れられる、そのような実感は少なくともあった訳である。

  昔、曳き屋を使って仕事をしてもらったことがある。 曳き屋と言うのは建ったままの家を解体しないで移動することを仕事にしている人達である。 その中にあきらかに知能の劣るいわゆるアホな男が一人いたが、その曳き屋の親方はその劣る男を各所で上手に使っていた。 また、その男も親方の下で少々のろいが真面目に一生懸命働いていた。 たとえ一人前に仕事は出来ないような人でも役に立つ場面は少なくないし、その使い方で結構役に立つものなのだ。 より合理的な、あるいはより効率が上がる組織を目指してその組織の中の劣ると見られる人々を排除すると、その分より効果的な結果が現れるかと言えば、必ずしもそうとも言えないという報告がある。 もともとわれわれはいろんな人が集まって集団を作っているのである。 その内の劣る部分を切り取れば、より優れたものになるかと言えばそうとも限らない。 そういう中で常に笑いの対象になりながら、それでいてその存在があることで内部がギスギスしないそんな存在は大切である。
 多種多様なものが多様なまま共存出来ている社会は決して不合理な社会ではないだろう。 本当の意味で合理的とか、効率的とかと言うことはどういうことだろう。 本当のところは自分が一番良く知っているように、われわれは常に合理的だったり、理性的だったりしているわけではない。 もし自分はどんな時でも合理的で理性的だと思っている人がいれば、その人ほど非合理的な人はいないだろうと思うのだが・・・