星と十字架

 昨日の茂木健一郎氏のブログの中の 『星と十字架』 というエントリーが何となく印象深いのでそのまま以下に記しておいた。
星と十字架
 先日、ドイツに旅した時、
アイゼナッハの教会の中で、
人名に年号とともに
星印がついているのを見つけた。

 文脈からして、「生年」の
ようである。以前から亡くなった
年は「十字架」で表現することは
知っていたが、星印は初めてみた。

 同行のドイツ人に尋ねると、
やはりそうである。
 
 ひとりの人が生まれたということは、
星の誕生に等しい。
 そんなことを考えていたら、
極寒の中、不思議に魂が
癒された。

 キリストが神の子であるという
命題の裏返しは、
 誰でもキリストと同じように
神の子であるということなのではないか。
 時折そんなことを考える。

 誰がどう考えても、ナザレの
エスその人は、この宇宙の自然な
プロセスの中に生涯を受けて、
そして閉じた。

 もしその人が神の子だという
のであれば、私たちはみな神の
子でなければならない。

 死は誰にとっても苦しいし、
恐ろしい。
 だとすれば、キリストが十字架に
かけられたのと同じではないか。
 キリストが人類のために
十字架の苦しみを経験された
というのであれば、
 死の床にある人は皆そうなのでは
ないか。

 どんな平凡な人でも、その生誕は
また一つの奇跡なのだとすれば、
それはキリストと同じように、星の
光をもって表現されるべきものなのではないか。

 教会の中で見た星と十字架は、
私たちは一人ひとりが等しくキリスト
であるという、無意識の知識を
表現しているように思えてならない。

 現在オフはガンの治療中で、いずれの日かそのために死ぬことを知らされている身である。 だがはっきりとそう言われた訳ではないが、何となくボンヤリと知らされているようなもので、だが、まだそう決まっている訳ではない。 ただ、ガンに罹患してから死がぐっと身近なものになったことは確かだ。 ある時、この先五年生きればとりあえずよしとしよう、と思い、それから先もまだ生きているとしたら、それはオマケのようなものだと考えることにした。   今のところ死ぬことはさほど恐ろしいとか、不安だというのは正直なところあまりない。 茂木氏が書いている中に <死は誰にとっても苦しいし、恐ろしい> という箇所があるが、それはたいがいの場合そうだろうとも言えると思うが、そうとも限らないんじゃないかなぁ、という思いもある。 もし出来るならそれを経験して、それを報告してそれから死ねればよいと思うのだが、それを経験した時にはもう死んでいるから、それは叶わないことである。 それよりも抗がん剤の治療はあきらかに苦しい。 この先三月にもう一度それを受けるのだが、不安である。 それがまさに寿命が縮む思いがするからであり、言って見れば寿命を担保に出して、延命するような治療であるからである。

 これまで五ヶ月間入院してVAD療法という抗ガン剤治療を二回、その後エンドキサン大量療法という抗ガン剤治療を一回、そして自家採血移植治療でアルケラン超大量療法というのを一回受けている。 この先三月に同じ抗ガン剤アルケラン治療がもう一度控えているのだが・・・これまでの治療で最低でも十年は寿命が縮まったなぁ、という実感がある。 そうかと言ってそれらの治療を受けていなかったら・・・現在生きているかどうかは分からない。 すでに死んでいたのではないかなぁという気もしている。 実感として十年寿命が縮んだなぁと思える治療は実際のところとても苦しい。    実際に治療中、こんな治療を受けるくらいなら死んだ方がまだマシだなぁ、と思ったこともある。 だから三月に受ける次の治療も出来たら避けたいなぁと思っている。 それを受ければ残された寿命が延びるのだ、と言うことが頭の中で分かっているのだが・・・時々そう思う時がある。

 先の文章の後にさらに茂木氏は以下のように続けている。

 ドーキンスが大切にする理性的に
考える「自由」を私も断乎支持する。

 同時に、その自由の中に、それを信じる
人々にとっての星と十字架が
含まれていても良いのではないかと
も考える。

 自由は、帰依をもその中に含むのである。
そして、帰依は逸脱への可能性を内在して
いなければならぬ。

 こう続けることで書かれている意味や内容がさらに広がり、さらに包括的になっている。