必然と偶然

 東京大の研究グループが終末期医療の在り方に役立てる狙いでアンケートを実施した。 これはがん患者や医師らを対象にした死生観に関するアンケート調査であり、がん患者はどのように死を迎えたいと望んでいるか・・・を探るためだと言うことである。   
 http://www.sakigake.jp/p/news/science.jsp?nid=2009011401000549
 その結果 がん患者は 「最後まで病気と闘うことが重要だ」 と回答した人が81パーセントで、これに反して医師では19%、看護師も30%にとどまったとある。 このアンケートの結果、医療側と患者側の意識の違いが浮き彫りになった、とある。
 一応がん患者の末席に控えるオフであるが、自分がこのアンケートに回答するなら最後まで病気と闘うことが重要だ、におそらく○をしないだろうと思う。 と言うことは当然この81パーセントに入らないのだが・・・患者でありながら自分の病気をかなり客観的な目で見ているということになるだろう。
 数多くの患者や臨床例を見てきている医師や看護師などの医療関係者が、突き放した冷静な目で病状や患者を見てしまうのはあるて度仕方ない面もあると思う。  科学的な視点というのは確率の可能性を前提にして成り立っていている。 だが、われわれが生きている現実は必ずしも必然的な世界であるということは出来ない。 たとえばある選択を行なう場合、たとえば嫁さんを選ぶ場合などでも、すべての選択肢の中からベストの選択をしているわけではない。 われわれはしょせん偶然的な限りある世界でその都度、賭けをしながら生きているようなものある。 だからしてそういう中にあって、ひょっとしたらあるかもしれない奇跡を望むのはこれはけっしてアホなことではない。 たとえ客観的に見て治らないだろうと考えられる状態でも、どんなにしんどかろうが、たとえわずかの可能性に賭けて治療を受けたいと思うのが人間であり、患者というものだろうが・・・と言われればなんとも返事のしようがない。 
 あらかじめ先が見通せる預言者というものがいるなら・・・その人はつねに虚しい気持ちと直面せざるをえないだろうと思う。 その能力で先のことを知りえたとして・・・たとえば今これこれの株を買って、それを一ヵ月後に売れば最大の利益が出ると分かっていたとしても、本来そのようにすることは本来嬉しいことだろうが、その行為がどこか虚しく感じてしまうような気がする。 分からなくてこそ喜びであり、だからこそ人間であり、アホでこそ人間である、と言えるとしたら、すべてを見通す神という存在というものは、もっとも虚しくて空虚な存在だともいえるだろう。