廉恥、自己否定、連帯

 内田樹氏がブログに全共闘運動について書いていた。
 60年の全学連安保闘争については ≪「果たされなかった本土決戦」をもう一度やり遂げなければ、日本の精神的再生はありないという青年たちの「攘夷の本懐」だったのである≫ と書いている。 60年安保にに関してはオフは10年のズレがあり実感的な感想などなくて、そんなことも言えるのかなぁ・・・という程度の感想しか持てない。 当時の世代が実感的にその見解に肯くかどうかだろうが・・・それに続いていわゆる70年安保につて以下のように書いているのだが、ウ〜ンこの見解の核心である攘夷という語には違和感があるなぁ・・・
 この全共闘運動について内田氏が使っている言葉の中から「廉恥」 「自己否定」 「連帯」という三つの語をキーワードに集約して説明することが出来ると思う。 
 ≪学生たちは無意識であっただろうけれど、彼らは戦国武士のエートスをもって「攘夷の戦い」に立ったのである。このときに日本の若者を駆り立てたもっともつよい心情は「廉恥」であった≫ 
 まず「廉恥」という語もまたその当時の心情を言い当てている最初のキーワードだったと思う。 しかしそれは「攘夷の戦い」などという時代掛かった感覚を根拠とではないと思う。 「廉恥」という語は次の「自己否定」にも通じると思えるのだが、現状への不満や否定はあり批判的でありながら実際には何もしないままただ流されている自分があり、そういう自分を認識しそれを恥じるからこそ「廉恥」という微妙な心情が発生するのである。 いずれにしろそのような微妙で不安定な心理バランスを背景に持っていた。
 ≪1970年前後、ベトナム戦争の激戦期に日本人の自己卑下はその限界に達していた。 それを癒すためには、たとえ自己破壊的な、自殺的なものであろうと、日本人自身によって「攘夷」の戦いが担われるしかない≫ 
 ここに書かれている自己卑下、自己破壊的とか自殺的、という語は「自己否定」というキーワードに集約できると思う。 たしかに全共闘の闘争には自己破壊的で自殺的な面があった。 それは誰が言ったわけでもなく、「自己否定」とか「全否定」などというスローガンの提示することに集約的に表わされていた。 しかしその背景にあったものは、「攘夷」などといういかにも時代掛かった精神ではなくて、とにかく社会に対して虚無的なまま無力感に支配され、流されながら生きている自分へ決別を投げつけるという事が=自己否定であって、そこからおずおずと腰を上げていった数名の少数派がいて、それらが全共闘の運動の母体となっていった。
 ≪ベトナムで絶望的な戦いを戦っている人々への連帯は「自分自身が機動隊に殴打されて血を流すこと」を通じて示すしかない≫
 さらに「自己否定」などの語に続いて当時を言い表すもう一つのキーワードになる語は「連帯」だったと思う。 「連帯」という語は、それ以前にはさほど使われなくて、その頃が一番頻繁に使われていた身近な言葉であり、その後また廃れて言った語だったように思う。 この語が使われだした背景は戦後の実存主義的な現実認識に根ざしていたと思う。 そのことをもっとも端的に表現していたのが、<飢えている子供たちを前にして、どう書く(生きる)のか>、というサルトルらのフランス知識人の設問であったと思う。 つまり今を生きる私(実存としての私)が、今世界で起きている諸々のことに無縁で生きるのは許されるのか、という問いかけを「連帯」という語は背景に持っていた。
 そしてその「廉恥」と「自己否定」と「連帯」が同居する心情は、当時の福田善之原作の戯曲「真田風雲録」の中の <テンデ、カッコヨク死にてぇなぁ〜>というセリフに端的にっ表現されていたようにも思う。 それを解説すれば心情ではテンデカッコヨク死にたいのだが、現実には決して死はテンデカッコヨクないことを知っているという真面目でない、ふざけた自分がいるという事である。 そんな自分達が手にする武器はせいぜいヘルメットと角材のゲバ棒までで、いわゆる本物の闘争≪ハイジャックや爆弾テロや連合赤軍による陰惨な仲間殺し≫などへ真面目に(カッコヨク)向かって行かない。 あるいはそのズット手前で日和見したり、脱落したりすること、本気にならないことをどこかで良しとしているような・・・どこかであらかじめ本気と線を引いていているそんな自分を肯定していた・・・あらかじめどこかで本気になれない自分を卑下しているような後ろめたさが付きまとっている・・・全共闘運動はそんなカッコ付きの人たちの<闘争>だった、と思う。 それを闘争の限界と見るか、見ないか、そんなことはそれぞれの人たちの自由である。 限界と見るのは、あくまで革命などという大げさなスローガンを標榜していた人たちの政治的な見解でしかないだろう。
 全共闘運動に参加していた人々の思いや思想を一括りに出来るような思想の論理などはなかったと思う。 それに参加した人数分(参加しなくて冷ややかな目で見ていたにしろ)の思いや考えがあったと思うが・・・個々のそれらを一つ一つ演繹していくことでしか、その当時の状況や論理が明らかにならないだろうという気がしている。