世話と迷惑

 病状は少々悪いながらもある種の落ち着きをみせている。 カレンダーを見ながら、後二週間だ、と自分に言い聞かせながら今日を過ごしている。
 10月の終り頃だったか、まだ自家移植を受ける前の頃に友人の一人がお見舞いに来てくれたことがあった。 その時のよもやま話の中で、長生きしても人の世話を受けて生きているのは情けない・・・何とか最後は人の世話にならずコロリと逝きたいものだなぁ、と何気なく言った。 
 これはおそらく今の日本人の大多数の人々が持っている意見だろうと思う。 ところがその友人はそれに対してこう言った。 世話を受けないで生きることなど出来ないんだよ、人の世話を受けて生きているのが人間だよ、人はそのように出来ているのだよ、と答えた。 一瞬、う〜ん、と思ったがすぐに、そうだったなぁ、と返事をかえした。 そうなんだ、人は決して一人で生きている訳ではないんだった。 生まれた時から、死ぬときまで自覚しているいないにかかわらず、常にひと様の世話になって生きているんだった、と・・・もっと大事なことを忘れていた事に気がつかされた。
 以下に書くことは病を得て病院のベットに伏しているオフが言うには、少々はばかられることであるような気もするのだが・・・
 人に迷惑をかけない、という事が今日のわれわれの社会で生きていく上での最低限のコンセンサスになっている。 一般的な親は子供に対して、人の迷惑になることをしてはいけない、と教える。 これをさらに踏み込んで言い換えるなら、人に迷惑をかけない限りにおいてお互いに自由である、とかあるいは、人様に迷惑をかけない限りにおいて何をしてもよい、と言い換えることも出来るだろうと思う。
 だが、世話を受ける、という事と、人に迷惑をかける、とこの二つの事柄は似ているようだが、本来違う事なのだろうと思う。 だが、その境界が今の社会ではかなりあいまいになっている気がする。
 健康で長生きしたい、というのが今の日本人の国是のような願いである。 その背後には人には健康が第一で、それが損なわれる病気→周りの人への迷惑、という図式のようなものがが誰の頭の中にも出来てしまっているという事なのだろう。
 しかし、世話を受ける、という事はこれは人として生まれた宿命みたいなものである、と考えると少し様相が変わってくる。
 思い出せないかもしれないが、人はこの世に生まれてきた後、周りに世話をしてくれる人がいなければ何もできない存在だったのである。 
 それがなければいわば生きてこれなかった生き物なのだ。 腹が減るとお乳をあてがってもらい、乳を飲んだ後は口の周りを拭いてもらう。 便が出れば、その便を拭き取ってもらい、おしりの周辺を清潔にぬぐってもらう。 何十回、何百回となくそれらの世話を周りの人から受けて我々は育ってきたのである。 そして人間は我々だけでなく、次の世代へ、さらに次の世代へと、ずっとずっとそれを受け継いで今日まで生きてきてきたのである。 もし一度でもそれが途絶えていれば、今日われわれはこの世に存在してないはずである。 老いて病を得て、ついには死に行く時も、まったく事情は同じでことなのである。