市場原理主義の崩壊

 昨夜はせっかくの外泊一日目で大好きなアンコウ鍋をしたのだが、お腹が重苦しくろくに食べれないまま寝るはめになった。 口の中にスッパイ味のするツバが次から次へと湧いてきて終始気持ちが悪いまま寝た。 だが夜中に今度は口の中がカラカラに乾いて、口内がバリバリになり何度か目が醒める。 でも、今朝はさつま芋入りの粥、昼はうどんを美味しく食べられた。 食事が美味しいのは今日が今月に入って初めてであった。 こんな些細なことが病院ではありえないことなのでやはり外泊は嬉しい。
 先にアメリカ民主党の経済政策は、需要を重視して政府主導の公共投資を増やし経済を活性化させるというものだと書いたが、それに対して共和党の政策は諸々の規制緩和を行い、供給サイトの自由競争をうながすという、いわゆる経済をできるだけ市場に任せる市場原理主義といわれる政策としてまとめることが出来る 前者はケインズ経済学による大きな政府、後者は経済学者ハイエクフリードマン教授などが提唱する市場原理主義による小さな政府を標榜している。
 戦後60〜70年代にかけてアメリカでは好景気が続いていたが、ベトナム戦争への深入りもあり70年代半ばから、インフレと失業が併存するスタグフレーションを経験し、やがて貿易と財政赤字が同時に膨らみと双子の赤字と呼ばれ急速に産業競争力を失ってしまった。 同じ頃イギリスでも労働党政権の下、揺り篭から墓場までといわれる社会主義的な高福祉社会を築いていたが、人々が労働に意欲を欠いてしまい活性化が失わた国になっていて、それをイギリス病と揶揄的に呼ばれていた。 ここで登場してきたのが、イギリスの保守党のサッチャー首相であり、少し遅れてアメリカでは共和党レーガン大統領であった。 この二人は徹底して規制緩和政策をとり巨大化した国営企業を民営化したりして、小さな政府を掲げて市場原理主義と自由競争社会を構築していった。 その結果90年代からの両国の復活、繁栄を呼び込んだのであった。 ちょうどその頃入れ替わるように日本では戦後から続いた高度成長の最後のバブル期をむかえていたが、そのバブルがはじけ、経済はどん底に陥っていった。 その時の日本のバブルは言い変えれば土地バブルであり、それまで銀行は企業などに融資をする時は土地を担保に取っての融資で、その土地値が急激に上昇に転じたバブルであった。 しかしバブルが弾けた後、日本でも遅ればせながらまずアメリカの真似をして金融界の規制緩和がなされ、銀行、証券業、保険業などのそれぞれの業務の垣根が取り払われ、市場開放なるものが進んでいった。 各金融業界は債権や、株、土地などを絡ませた投資信託などを作って、それを売って手数料を稼ぐことが主たる業務の中心においたことに切り替わっていった。 金融業界はそれまでの担保を取って金を貸しその鞘を取る業務から、たとえば住宅ローンを寄せ集めてそれをまとめて証券化して、それをさらに細かく細分化し信用保障保険なども付けたものを、手数料を付けそれを他の多数の金融業界で持ち合うことを始めた。 そのような手数料で利益を上げることに切り替わっていった。 株、為替、先物、土地、債権などが入り組んで仕組まれた商品のことをデリバティブと言い、一見まことに合理的な仕組みだが複雑で入り組んでいて一見しても玄人でも訳の分からない仕組みである。 しかしその根本には世界が発展し経済が拡大する以上、お金には利息が付いてくるという安心神話で支えられているのだった。つまりこの世には<金の成る木がある>という神話である。 今のところこれはたしかに間違いではない、とオフも思う。 なぜなら石油という地球規模の箪笥預金があるからであるが・・・しかし、もっと根本のその自由市場を支えている資本主義の根源は何であったか?・・・それは人の欲望を全面的に肯定する事であった。 人の利に対する欲望、その欲望にはとどまるところがない、際限のないものであって、理屈で割り出すリスクなど軽く乗り越えていってしまうことが忘れられていた。 おおもとの借り手が一斉にお金を支払えなくなると破綻して証券は紙切れになってしまうことを皆忘れていた。 借り手が一斉にお金を支払えなくなる? 市場開放主義者にはそんなことは経済成長が続いている限り理論的にはありえないことであった。 が、今回そのあり得ないことが起こり、その時こそが市場原理主義理論が破綻した瞬間であったのだとオフは思う。  ケインズ主義も需要は喚起される結果理論的には税収も倍増するので、国家財政に負担は回避されるとされたが、結局は財政赤字は増え続けてその限界がすでに示されている。  でも欧米流経済政策はどうであれキッチリとした理論からなる政策に基づいているので、たとえ破綻してもその失敗の原因究明がとてもやりやすく、それをカバーして越える理論が次に出て来るところが救いである。 その点日本の政策は現実の政治と同じで、言い分を両方聞いて二で割るようなどちらつかずの政策が多く、あいまいで何が悪いのか良いのかわかない。 最終的に誰が責任を取るのか、その責任の所在さえ明らかにならず、責任のが取りようがないままあいまいに収束する。 民主主義の根幹が連呼する<お願いします>に置かれていることにすべてが現れているのだろう。