クオリア

 昨日、骨髄穿刺が終わり、24時間の尿の量の検査も今朝終了した。 この後全身のレントゲン検査が済めば一時帰宅する事になる。 下の階に入院している嫁さんのお母さんも一緒の車で一時帰宅することになる。 先週と同じようにスーパーに立ち寄って帰宅中に食べたい食材を買って帰ることにしている。 明日土曜日には下の息子も東京から高速バスに乗って見舞いに来る予定になっている。 下の息子は大学を出た後、横浜で就職したのだがしばらくして同じ業種の会社へ転職した。 その間しばらくお一人様の期間が続いたのだが、30歳を目の前にしたこの時期に来て、今の会社の後輩と恋人関係らしきものになったようだ。

 脳科学者の茂木健一郎さんが昨日のブログ「クオリア日記」 http://kenmogi.cocolog-nifty.com/ の中で、
 ≪クオリアを、進化論的な観点からとらえるのはクオリアの本質を見過ごしているということである。 今日、脳の構造を含めて、全ての生物学的特徴を、その淘汰上の利点から考えるのは、当然のことのようになっている。実際、巷には、意識がどのような淘汰上の「利点」を持つから進化してきたのかを論ずる論文があふれている。 私に言わせれば、私たちの心の持つ属性、とりわけクオリアは、その淘汰上の利点とは独立して論じられなければならない。・・・・・・あるクオリアと、その淘汰上の利点の結び付きは、全くの任意なのであって、クオリアの存在自体を、淘汰上の利点から説明することはできないのである≫ と書いていた。
 この文章は昨日の彼の日記に書かれていたのだが、実は 茂木健一郎著の『脳とクオリア』 (日経サイエンス社、1997年) 第4章7節 「ニューラル・ネットワークにおける相互作用同時性のパラメータ」 の中で書いた一部分を茂木さんが抜き出したものである。

 数日前に ≪オフはこのヒトが人間になったという問題については自分なりにいろいろ考えて、性的な行為が動物としての本能、つまり子孫保存のための生殖から外れて、オールタイムそれが可能になった時から始まったのではないかと考えてきた≫と書いた。 その根拠についてオフが当初考えていたのは以下のような事だった。 ヒトのメスは犬や猫などと同じように年2回のメンスがあり、それが終わる頃にセックスすると妊娠するということを繰り返していたと考えられる。 だがある時、突然変異でヒトの遺伝子の中にセックスが何時でもOKという遺伝子が出現したと仮定しよう。 当然の事ながらこのような遺伝子を持ったヒトは、常時チャンスがあれば相手とセックスしようとするだろうから・・・その結果それがその個体に有利に働いて、そういう遺伝子を持った子孫が広く生き残こることになった・・・このような進化論的な仮説は大変分かりやすく、説得力もある。 当初オフもこのような仮説を考えていた。 しかしある時からどうもそれは少し違うんじゃないかなぁ、と考えるようになった。 そうではなくて内田氏言うように、ヒトがヒトの亡骸に対してそのヒトが生きていた時と同じ存在感のようなもの感じ取った。 その時からそれまでそこらに転がっていても何も思わなかった亡骸を埋葬し弔うようになった。 それと同じように、ヒトは発情期でもない時に、たまたま何かで興奮したオスがメスに対して発情期のようなモヤモヤしたもの感じ、それがメスにも感染しセックスをするようになった。 それがそれまで本能でセックスをして繁殖して来たヒトから人間への転換となった。ヒトは本能で生きることをやめて、脳内でつくられたある種の幻想でもってセックスするなどなどの生き方の方へに乗り換えたのだ。 つまりその時の感覚が脳内で急激な大脳の発達を促して、それはある種の幻想を作り上げる一種のソフトを作のようなものであり、それまでの小脳がホルモンなどの作用で生きてきた本能による生き方とは違う生き方が始まったというわけである。 これらの説明は、なんだか分かるようで分かりにくいところがあって、突然変異の説明よりかなり無理があるようだが、ヒトではなくて人間が脳で生きる生き方を始めたという説明はこのようにして説明するしかないのだ。

 茂木氏は同じことを上手く説明して以下のように続けている。
 ≪あるクオリアの存在が、生存を脅かすようなものであれば、そのような生物は絶滅するかもしれない。例えば、捕食者におそわれた時に、心の中に「銀の鈴を鳴らしたようなクオリア」が浮かんで、それに聞きほれてしまうような生物がいたとしたら(まずそんな生物はいないだろうが!)そのような生物は絶滅するだろう。だが、そのような淘汰上の不利益と、「銀の鈴を鳴らしたようなクオリア」自体が持つ属性は、全く無関係なのである。
 私たちが、現に心の中に浮かばせることのできるクオリアについてせいぜい言えることは、それが生存上の要求と両立可能(compatible)であるということだけだ。クオリアの持つ属性と、その淘汰上の意義は、独立した概念なのだ≫

 さらに興味のある人は、以下をクリックして読んでみてください。
 http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi/qualia-summary.html