再び全共闘について

 嫁さんの母親が入院して乳癌の手術をしてからもうすぐ二週間である。 予定ではそろそろ退院というところなのだが、高齢なこともあって、今週末に退院できるか微妙である。 とにかく嫁さんが大変である。
 オフは今日骨髄穿刺を受けた。 骨髄に注射針を刺して骨髄液を抜いてそれを検査するためにである。 骨髄穿刺は痛いので麻酔をしてからするのだが、前の足の付け根と違って針を刺すのは身体の裏側だから気分的にはかなり楽である。 その他CTとか心電図、心エコーなどなどの検査も来週に予定されていて、その結果を見て今月末に第一回目の自己血液の移植が行われることになる。
 
 今日の内田氏のブログに六十年末の全共闘運動を内田氏はどのように総括したかという話が載っていた。
 納得できる部分もあるし、そうでない部分もある。 オフもつい数日前にこの事にふれたばかりなのだが、まだまだ言いたいことはたくさんあるのだが、今日もその事に少し触れることにする。
 
 《全共闘運動はマルクス主義政治運動の形態を借りてはいたが、「科学的社会主義」とは無縁であった。私が知る限り、この運動の中で、「科学性」や「推論の適切さ」が配慮されたことはなかった。学生たちを駆動したのは「肉体」であり「情念」であり、冒険的で行動を可能にするのは「断固たる決意」であった≫
 
 このことについては先に書いたとおりまったく<異議なし>である。 ここで触れられている「肉体」ということについてだが・・・オフたちもあえてゲバ学生(暴力学生)と言われんがため、大多数の良識ある人々から批難されたいがためにヘルメットをかぶり、ゲバ棒という角材を手にして武装した訳である。 そして機動隊を眼の前に(機動隊とはまさに自分たちの目に見える具体的な権力であった)自らの肉体というか、身体で対峙する事で、それがそれまで大人しく大過なくすごして来た自分を、何ごとにも何をしても一緒さ・・・などと虚無的な考えで対処していた自分を変革させるキッカケニになるだろうと信じようとしていた訳である。

 
 ≪全共闘運動の目的は「日本を破壊すること」であった。
「こんなろくでもない国はなくなった方がいいんだ」というようなすてばちな気分が1968年の若者たちにはあった。
学費値上げ反対とか、学生会館の管理反対とかいうのは単なる「いいがかり」である。
学生たちはアジアの同胞たちが「竹槍」で米軍と戦っているときに、自分たちがぬくぬくと都市的快楽を享受していることを「志士の末裔」として恥じたのである≫
 <日本を破壊すること>とは何が何でも少し大げさすぎないかと思うが、先にも書いたように・・・少なくとも自己否定とか、全否定とか、反大学というスルーガンを掲げた背景にはそれと共通する気分を持っていたわけである。

 ≪60年代末の学生運動のもっとも印象深いたたかいは「佐世保闘争」と「羽田闘争」であるが、これは「開国」した港湾に寄港した「アメリカの軍艦」と「アメリカの飛行機」を「ゲバ棒=竹槍」で追い返すというきわめてシアトリカルなものであった。
ゲバ棒というのは若い人はご存じないであろうが、芝居の大道具などにつかう軽量でへろへろで簡単に折れる材木である。
どうしてあのような実効性のまったくない「武器」を学生たちが採用したかというと、それはまさに「実効性がない武器で戦う」というところに「竹槍性」の本質があったからである。
へなちょこなゲバ棒ジュラルミンの盾と警棒で武装した機動隊と戦うときにはじめて「ベトナムの農民との連帯」が幻想的に成立したのである。
そして機動隊に蹴散らされて、血まみれになるときにはじめてアジア人として「恥」の感覚が少しだけ軽減したのである≫

 これも話が少し大げさで思わす笑ってしまったが、個々のゲバ学生の中にはそれぞれの個人的な幻想を抱えて一連の運動というか、闘争に関わっていた。それはベトナム戦争反対とかと言う、具体的な政治課題などとは実は縁がなく、それは個々人の家の問題、つまり親との関係、帰って家業を継がねばならないとかの問題であったり、就職の問題であったり、恋人との関係であったり・・・とにかく今抱えている自分の内部の問題であり、今後の自分の生き方の選択の問題であったりしていたと思う。
 であるからこそ、わざわざ内田氏が指摘するように
 ≪あの運動を「何かを建設する」ためのものであるとか、「何か有害なものを破壊する」ためのものであるというふうに合理的に捉えようとする試みは(若い社会学者たちが始めているらしいが)たぶんうまくゆかないと思う≫
 もちろんオフもその通りであると思う。
 全共闘運動が廃れた数年後に作家の三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊の本部に同士と乱入した後、割腹自殺するという事件があった。
 そのニュースを見ていた身近な人が「あんな馬鹿な事をしても、世の中何が変わるわけでもないのに・・・あの男は何を考えているのか・・・」と憤慨するように呟いた。 その時オフには 三島氏にとって自分がその行為をすることだけが重要であって、そのような行為をして何かを変えようと期待している事など微塵も持っていない、と分かったのだがあえてその場では何にも言わなかった。 その身近な人はオフの父親程の年齢だったのだが、それらの人にその事を説明して分かってもらえるとは到底思えなかった訳だ。 同じことは年代が違うだけでなく、オフの同年代の人々に対しても似たような事を感じることが日常生活ではままあり、その時は一様に黙り込むという行動をとっていた。 さらに全共闘運動にお互いにそれに関わった同士の間と分かっても、旧軍隊の戦友のようにお互いに肩をたたき合うような親密なものも持てないような極めて個別的な闘争であったと考える。

 これらの事をひっくるめて今風な言い方ですると、それを煎じつめると個々人のバーチャルな内部の闘争であり、あたかも未泌の故意とでも言えばよいような・・・また、それは日本でも初めての、世界でもこれまでになかったようなおかしな集団的な闘争であったような気がする。 

 最後にさらに付け加えるなら、一部ではあったが全共闘内部では戦後の民主主義への批判が激しくなされていた。
 そのことは、全共闘世代は戦後の第一陣の世代として戦後民主主義を無条件で信じて育って来ていた。 それは初めてテレビで見たアメリカの日常生活や家庭の風景が背景にある。 一家に一台ある大型TVや車などの物質的な豊かさだけでなく、家庭の中では子供であろうとも自分の意見を持って生きていて、それに耳を貸す大人がいるという信じられないような風景だった。 実はそんな絵に描いたような家庭は当のアメリカにもなかったのだが・・・。 それらを信じて育ってきた世代が、いよいよ大人の仲間入りを果たしたが、目の前にしている戦後の日本にはそれとは全く違う偽善的な民主社会である事への反発や怒りでもあった。
 さらにもう一つだけ付け加えるなら、戦後のアメリカ軍の占領下の下でタナボタ式に与えられた民主主義などしょせん偽善でしかない、という指摘もしていた。 自由とか、権利とかは何処かの誰かから与えれれるものでなく、自分たちの手で勝ち取ってこそ、たとえ血を流してでも獲得してこそそれが血肉になる、というイデオロギーの芽生えの考えもあった そのために肉体をさらしてでも闘い、それらを勝ち取る過程で自己も変革していくのだ・・・と繋がっていくのだが。