自己否定

 外泊2日目。時々貧血気味のめまいがあるが、色々食べたいものを食べている。朝食には昨日のあんこう鍋の残りのスープで作ったお粥、お昼は太刀魚の塩焼き、イカと里芋の煮物、お粥、夜はおでんの大根とこんにゃくと卵を食べた。昨日スーパーで選んで買ってきた食べられそうな食材ばかりだったが、今ひとつ本来の味がしなくて、思っていた半分程しか食べられなかった。

 昨日読んだ『大人のいない国』の中で鷲田清一内田樹が対談している所があった。

<このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけど、意味がわからないらしい。「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね。ストックフレーズ化した「正論」をぺらぺら喋ることの達者な若者に、「ちょっとネゴしようよ」と言うと、「大人は汚い」とはねつけられる。……彼らにしてみたら、自分は「正しい意見」を言っているのに、何が悲しくて「正しくない意見」と折り合わなきゃならないんだ、という事でしょうね。……自分の考えが部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。>

 これはそっくりそのままオフたちの若い頃の全共闘運動にも通じる話しだなぁ、と苦笑いせざるを得ないようだ。 あの頃には外部に向かって発するのは最小限度の二つのセンテンス、つまりナンセンスと、異議なしという二つの言葉しか発言していなかった。 つまりイエスとノーだけなのである。
 そしてその中間は一切なかった。
  しかし、当時の全共闘運動の場合ノーという場合、自分達を含めてノーであるという点が極めてユニークな点であったと思う。 その点はその当時のスローガンにも如実に現れていて、<全否定>とか<自己否定>などという言葉があちらこちらで叫ばれたり落書きされていたのがその証拠である。 又大学生である自分たちの拠って立つ大学そのものも否定して<反大学>などということも叫ばれていた。
 運動の究極の存在として銃を捨てて花を掲げる、あるいは一切の有用な生産活動を拒絶し、自然への回帰をうたい文句にしていたヒッピーを目指していたが、一時的にそのように存在できても、それを続けるのはほぼ絶望的な運動でもあった。
 そのような運動に関わりながら学生を終わると、はいさようならと涼しい顔をして社会へ出て行くことも自分内部では大きな問題で、そこらあたりの葛藤で悩んでいた学生も多かった。 当時のフォークソングの中には就職のため今日俺も若くはないと髪をきってきた・・・等と惨めな自分を歌う唄もあった。 目の前には産業が高度成長期の到達点に向かってひた走る社会があり、まさに自分達が否定し拒絶している管理社会が待ち受けていたからだ・・・。 その辺の葛藤からあえて会社へ就職せず、個人的な小さな学習塾などを開いていった学生も当時はかなり多かったと思う。