ヒトから人間へ

 今日は外泊の日だったが、迎えに来るのが遅くて遅くなってしまった。須磨へ帰る途中に大型スーパーに寄って3日分程の食料を買った。レジを待つ間にオフは屋上の駐車場へ戻るのにエレベーターに一人乗った。小さな子も二人乗っていて、その子供たちがオフの顔をじろじろと物珍しそうに見ているので、あぁそうか、俺は今頭の毛が抜けて丸坊主な上、非常に顔色も悪くやつれているので子供たちはびっくりして恐ろしいものを見るように眺めているのだと気がついた。マンションに着いて、4階の部屋に入ったとたんに気分が悪くなり、少々吐いた。しばらくしてからあんこう鍋を少し食べる事が出来た。

 ヒトが人間になったきっかけについて学校で習った、火を使うようになったからとか、直立二足歩行を始めたとか、道具を使うようになったからなどというのは間違いだという事は分かるが、では何が原因でヒトが人間になったのかと問うていくと分からなくなる。

 最近は内田樹氏の書いたものをブログに限らず、著作などもよく読むので何処に書いてあったか分からなくなってしまったが、ヒトが人間になったキッカケは死人を弔うことに始まったと書いていたと思う。
骸(ムクロ)は単なる死骸やモノではなくてそれを魂のあるものと認識した時から始まったというように書いていたと思う。
そう言われると確かにそのような気がしてくる。
そこから内田氏は<弔う>という行為が人を人としてあらしめている行為だから、決してそれをおろそかにしてはならないのだ、ということに踏み込んで書いていたと思う。

 オフはこのヒトが人間になっという問題については自分なりにいろいろ考えて、性的な行為が動物としての本能、つまり子孫保存のための生殖から外れてオールタイムそれが可能になった時から始まったのではないかと考えてきた。

 今もどちらの考えが正しいのか結論なるものは出てこない。

 だが、弔いの考えでいけば、同時にそこに時間の認識の発生が出てくるだろうことは分かる。<生殖行為>にしろ、<弔い>にしろそれはヒトの誕生と死に関わっているもっとも重要な事である。