脳と身体2

 今日も安定した状態が続いている。昨夜で抗生剤の点滴は終わり、今日に入って栄養剤入りの輸液の点滴も終わった。これでトイレへ行く時にガラガラと点滴袋をぶら下げたスタンドを押していかなくてもよくなった。食事はお粥とバナナくらいですませているが、栄養剤入りの輸液が入らなくなるので、徐々に食欲の方も出てくると思う。明日から連休だが、その間の外泊が認められることになった。外泊はよい気分転換になると思う。

 病院のベッドに寝ながら本を読んだりしているが、同時に脳と身体の事についてぼちぼち考えたりもしている。はっきりと違いが出るのは「死」というものに対してで、脳と身体では死への向き合い方が違う気がする。身体の方は「死」というものに対してそれをあらかじめ想定したり、悩んだり、苦しんだりするという事はないと思う。多分身体は成長し、生殖して次の子孫を作り、そしてその役目を終えて消滅していくそういうサイクルの中で「死」というものを迎えるという向き合い方をしているのだろうと思う。これは身体が自然に属しているという事のひとつの表れだと思う。
一方「死」というものをあらかじめ想定したり、考えたりできるのは脳であるが、そうであるからこそ脳は「死」というものを恐れてもいる。脳にとっては「死」ほど恐ろしいものはない、という風にとらえていると思う。脳というのは一人一人の人間の個別のものだが、その個別の個人が死んでしまえば完全に無となってしまって後には何も残らない。
また宗教などを通して永遠を願うのは、脳である。言葉等を介して脳が作り出しているものは、全部幻想であるともいえ、その個人の抱く幻想は死とともに無くなってしまう。脳にとってこれは堪らない事であるのだろうと思う。また、我々が自分の誕生以前の事を知りたがる、これも完璧を望む脳の仕業である。日本人のルーツ、動物から人間への進化、生物の誕生、地球の誕生、宇宙の誕生…それらを知ることによって脳はさらなる完璧と安心を求めている。また一方で恐ろしい未来における自分の死をも完璧にするために、脳は物語を造り出すこともある。それは宗教的な弾圧に抗しての死、国家のために、愛のための死、等々が全てそうである。