ジャン=ポール・サルトル

今から20年かそれ以上前だったと思うが、新聞の片隅で小さな囲み記事を見つけた。その内容はジャン=ポール・サルトルについて書かれたもので、行方不明になっていたがフランスの片田舎のお助け病院にサルトルが入院していて、視力を失っている事がわかり、長年の恋人シモーヌ・ド・ボーヴォワールが駆け付け、彼女がサルトルを引き取った、と言う簡単なものだった。

60年代後半、約1年程の間オフが当時の全共闘運動に関わっていた事がある。その時の行動の指針はサルトル実存主義思想であった。全共闘運動は、マスコミ等ではマルクス主義による革命運動だったように今でも言われているが、それはごくごく一部の学生だけがそのような考えを持っていただけで、大部分の学生たちはマルクス主義や革命などとは全く縁がなかったと思う。オフのようにサルトル実存主義思想に影響されて参加していた学生もかなりいたと思うが、はっきりしたことはわからない。

 彼の実存主義思想とは、実存は本質に先立つものであるという考えが基で、人間なら人間の本質がまずあって、人間とはこういうものだというふうになるのではなく、どう実存するかによって本質が決まっていくものだという、当時としてはそれまでの哲学を否定する逆転の思想だった。次に人がより本質的に実存するために、今生きている現実にアンガージュしなければいけない。アンガージュというのは英語ではエンゲージであり、婚約の意味がある。簡単にいえば形のない愛や恋を、より明確化し具体化したものが、婚約(エンゲージ)であると言うことも出来る。さらに彼は、今の現状に無関心でいたり、無視したりするのは正しくなく、それに対してどのように自分は判断し行動するかと言う事で実存が決まるという考えである。この思想は彼がナチスによるフランス占領時代に、反ナチス抵抗運動の中で獲得し思想化していったものだった。当時、アメリカはベトナムで戦争をしていてそれに対して人々はウィかノンの態度表明が必要であり、それが現実を変革し同時にそれが本人の実存そのものも変えていく。だいたい以上のような考えだが、完全にこの考えに虜になって、単なる演劇青年だったオフは全共闘運動に関わり、最後は投獄されることとなる。

この実存主義思想はのちに台頭してきた構造主義(実存等という前に、社会の構造そのものの在り方をまず問うていくという主張)に批判され、急激にその影響力を失っていった。マスコミの注目を浴びていたサルトルの発言も殆ど聞かれなくなっていった。
そこで先に述べた囲み記事である。サルトルには学生時代からの恋人ボーヴォワールがいて、二人は結婚することはなかったが、生涯恋人同士でサルトルのそばにはいつもボーヴォワールが付き添っていた。サルトルは背が低いうえ、どこを見ているかわからないような斜視の強いブ男だった。女遊びが大好きで、そのため結婚を拒否していたのだ、という口の悪い人達もいた。

 囲み記事を読んだ時にオフの頭の中に田舎の病院でサルトルボーヴォワールが対面する場面が浮かんできた。
「やれやれ、とうとう見つけられてしまったか。やぁ、お嬢さん、久しぶりだねえ。」
「どうしたのよ、本当に目が見えなくなったの?後は私があなたの面倒を全部見るから心配しないで」

ボーヴォワールはたしか金持ちのブルジョワのお嬢さんだったと思う。そのいくぶんか前にノーベル文学賞の受賞が発表されたが、サルトルはそれを拒否するという事件があった。確かノーベル賞は副賞で一億円近くのお金を貰えるはずだったと思うが、それを拒否したのだ。自らの思想の非を認めて、人々を先導した責任を取って、自分にはその資格がないと拒否したのだろうか、本当のところはわからない。

日本でも戦前、武者小路実篤という作家がいて、戦争中日本の軍事行動を支持したことを恥じて戦後は筆を折り、色紙にかぼちゃや茄子の絵を描いて「仲よき事は美くしき哉」などと書き、それを売って細々と生活をしていた。
思想の問題はさておいて、オフはサルトル武者小路実篤の生き方に強くうたれる。