外泊の夜

 昨日、外泊をもらって夕方から須磨のマンションへ来ている。 病院へは明日の夕方までに帰ればよいことになっている。
 昨夜は調子に乗って缶ビールを飲んでから睡眠薬を飲んで眠ったせいか、今朝から何となく不快感がしていて食欲もあまり無かった。 まるで二日酔いの時みたいに夕方近くになってようやくそれも治まってきた。 ビールもそうだったが、昨日の夕食に食べた握り寿司も本来の味がしなくて、少しも美味しいとは思わなかった。

 娘も二、三日前から東京に戻っていて、用事を済ませて今月末に再びこちらに来る。 今回帰ったのは東京を引き払ってこちらに引越してくる下準備のためである。 話を訊いた時は、まさかと思っていたが引っ越しはどうやら本気の話である。 いろいろと娘なりに思うところがあってのことだろうと思うので、詳しくは今のところ訊いていない。 これまで十年以上親の手をかりることなく東京で一人り暮らして来たのだから、実のところあまり心配もしていない。 

 昨日の日記で今後の経済の流れについて思うところを書いてみると偉そうなことを言ったが、体調が戻ってからにする。
 と言っているが連休明けから三度目の抗がん剤投与が始まるので何時になるか分からないことになりそうだが・・・ 


 昨夜も須磨に帰ったが当然ながらテレビ嫌いのオフはテレビをつけなかった。 そうするとどうしても嫁さんと向き合わざるをえないので、結果的にあれやこれやと二人で話をすることになる。 そんな四方山な会話が今日本の家庭や夫婦の間には一番欠けているように思える。
 そんなに話し合う事はない、と思われるかもしれないが…そのように過ごしていると意外と話し合う題材は事欠かない事に気が付くものである。 以前はオフも家ではテレビばかりを見ていて、会話がなくて子供たちからも無口だと思われていたこともあるが・・・今はそうではない。 その後もニュースなどはどうしても見たいのでテレビを点けていたが、ネットでニュースを見るようになるとテレビは必要なくなった。 ネットではさして知りたくもないニュースを見出しだけで飛ばして、知りたいニュースだけを選択的に見ることが出来る。 さらにテレビなどでは知りたくないニュースなどをぼんやり見ている時間に、知りたいニュースをさらに詳しく検索していくことも出来るのでありがたい。 ありきたりで常識的な解説などもつかないので、いつの間にかそのニュースに関して自分で考える癖が付いてくる。 ありがたい事ばかりである。

 オフが病院に入った当初は四人部屋だったが、その四人のうちの一人は朝7時から夜の10時までテレビを点けっぱなしなのである。 時々看護師に注意をされるのだが、そのときだけ音を絞るが、いつの間にか音を上げてしまう。 おそらく彼の家では朝起きた時から夜寝るまでテレビは点けっぱなしで生活していて、それが当たり前になっているのだろう。 病院の入院の案内書にはラジオやテレビはイヤホーンで聴いて下さい、と書いてあるのだが・・・さいわい一人部屋が空いたのでそこを移してもらった。 その時、まさに解放された気分で、静かだという事はこんなにもありがたいことか、と改めて認識しなおした。
 そこまでのことはなくても、このままなら二十世紀の後半から二十一世紀にかけて日本人は家庭内ではテレビばかりを見ていた、と後世の歴史書に書かれるのは間違いないだろうと思う
 
 また、最近では間接照明など言われてリビングなどの照明をわざわざ落とすことも出来るようになったし、部屋の照明は天井の真ん中から明かりは来るものだったが、最近では低い位置の照明なども工夫されてきている。 静かな会話をするには明るすぎる照明はかえって邪魔になる。 人類はおそらく長い間洞窟などの中で、長くて暗い夜を火を焚いて過ごしていたのだろうと思う。 家を造って住むようになってからも囲炉裏を切ってそこで火を燃やしていた。 ちょうどたき火や囲炉裏の火が燃えるくらいの明かりが一番心地よい明るさと思えるのはそのせいだろうと思う。 リビングでくつろいで過ごす時は、明かりを落として部屋に明暗が出来るくらいの明るさがあれば丁度よいだろう。 理想的にはガラスの扉付きの薪ストーブがあれば、中で薪を燃やしその程度の明かりが最高に心地よい。 なくてもロウソクを灯しての明るさがあれば十分だ。  
 よく外国映画などでは恋人同士がロウソクを灯して会話する場面があるが、人と人の間の親密感を演出するにはそれが一番だという事が分かっているからだろう。