『珈琲時光』

  田舎から友人達がお見舞いに来てくれた。 高校時代の同級生三名とその奥さんの四人で、今朝7時頃に出発してお昼過ぎに明石市へ到着して、昼食に明石焼きなるものを食べて2時ごろに病室に入って来た。 オフの娘と少し遅れてきた嫁さんも含めると総勢7人となるので、個室といえど狭くて、皆で食堂へ移動して歓談した。 オフにはこれまではいくらか友達いたが、今では付き合いが続いているのはこの三人プラス一名だけである。 高校時代にはこれらの友達とは顔見知り程度でとくに親しいわけではなかったのだが、十数年前ごろから年に数度程度一緒に酒を飲みかわす関係になっていった。お互いに似たところなどあまりない(高校時代は劣等生だった)が、何となくどこか気の置けないところがあり続いているという訳である。 数日前に庭にはえた薄紫色のキノコを食べた時の話を書いたが、その時鍋を囲んでいたのもこのメンバーであった。 一時間ほど歓談したあと彼らは帰って行った。遠いところありがとう、ご苦労さんでした。
 

 昨日内田樹氏のブログ(http://blog.tatsuru.com)を引用したが、その内田氏は今日の日記に<『秋日和』と『すーちゃん』>というタイトルで書いている。 その中で内田氏は、


 ≪当今の非婚趨勢は、若者たちの「非婚志向」が強まったからではなく、若い人たちを本人の意向を無視して、「無理やり結婚させる」社会的圧力が失われたことが最大の原因なのかもしれない。


小津自身は生涯独身だった。そして、「活動屋」というやくざな仕事で、気の合う仲間たちと「遊ぶ」ことにひたすら興じた人である。
にもかかわらず、その小津は「結婚」と「家族」を、ほとんどそれだけを描き続けた。


あたかもそこだけが人間的成熟の場であり、すべての人間的経験はそこに凝縮されていると言わんばかりに。


「家族を作れ」というのは要するに「成熟せよ」ということである。
それは「いつまでも、若く、自由で、イノセントでいたい」という若者の願いと必ず葛藤する。
この葛藤を押し切るだけの「成熟圧」を喪ったというのが、おそらくは私たちの時代の非婚の実相なのである。≫

 などと書いている。

 数年前に放映された『珈琲時光小津安二郎の生誕100年を記念し「東京物語」のオマージュという形で製作された映画と宣伝されていた。
 松竹が小津作品のオマージュを描けるのは小津監督を敬愛する台湾出身の侯孝賢監督以外にはいないと選んで、派手な前宣伝をしてヴェネチア国際映画祭に出品された。 だが期待ほど評価を得ず、その他のおもな映画祭でも受賞を逃している。



 オフもこの映画を見ていて(Offer57の日記 http://d.hatena.ne.jp/offer-57/)2004・10・17の日記にその評価を書いているが、90点とほぼ最高点に近い評価を与えている。

 その日記にはオフは以下のように書いている。
 ≪何も起こらない平凡な日常、その中で起きる変化と思われるのは一青窈が演ずる主人公が妊娠した、と語られて時々彼女に悪阻のような症状が起きるだけである。 それなのに見ていると心の奥のほうから深い溜息をついてしまうような静かな感動に包まれた。 目の前の映像の中に現代のわれわれの状況が包括的に表現され、的確に封じ込められていることが感じ取れるからだったと思う≫

 『珈琲時光』ストーリィーは単純で以下のようなものである。
 フリーライターの陽子は、生みの母が台湾人で、日本と台湾を行き来している。高崎で暮らす実の父と義理の母とはいい関係だ。古書店の二代目、肇(浅野忠信)とは親しく付き合っており、台湾の音楽家の資料も探してくれた。肇は陽子に思いを寄せているが、その気持ちを伝えられない。ある日陽子は、自分が妊娠していることを高崎の両親に告げる。さらに相手は台湾の男性だが、陽子はひとりで産んで育てるつもりだと語る。

 この映画で評価されたのは≪カメラのアングルは小津と同じで、室内では畳に座った人の目線に据えられている。当然ながら登場する人々も畳の上に座って登場するわけであるが≫、そのような生活が今の東京に残っているのかと少し心配したが、下町の狭い貸家の生活ならそれはそれで充分ありうる―オフの日記より≫…また、神田神保町鬼子母神等の古き日本の街角や路地、山手線、京浜東北線高崎線都電荒川線の車窓風景の映像美が評価されたぐらいだった。


 今となっては少々自慢になるが、≪目の前の映像の中に現代のわれわれの状況が包括的に表現され、的確に封じ込められていることが感じ取れるからだったと思う≫と書いたのは、ネタばれすることになるが、あえて書くと・・・・

 
 そんな時、母と父はなかなか娘に言葉を掛けれないものである。なんと言葉をかけていいのかわからないからだ。言いたいことは皆が誰でも分かっているが・・・結婚しないで子供を育てることは容易ではないよ、という当たり前のことなのだが・・・ましてや収入も少なく貯金もない彼女は大丈夫なのか、と義母ならずとも、ごく普通の親ならまずそのことを心配するのだが、それを世の中の経験者として分かったように頭ごなしに語らない、娘思いの親たちが描かれている。

 娘陽子の場合も子供を宿した身体を気遣うようにミルクを飲み、電車を使って東京を移動している。そんな描写に陽子の心の中の決意はそれとなく描かれている。 また一方、そんな陽子をそっと見つめる少々オタクな肇。無理をしすぎて風邪をひいた陽子を静かに看病したのはこの肇である。
 そのように彼女にひそかな思いを寄せている肇だが、電車の音に対する思い入れをオタクのように語れるが、陽子に対しては自分の思いを情けないほど伝えることが出来ない。
 両親が上京し、陽子の部屋に泊まる。彼女は二人に結婚しないわけを話す。子供の父親は彼女が台湾で日本語を教えていた時の生徒だったと・・・ある程度豊かで暮らしには心配がいらないが男だが、母親べったりで彼と結婚したら確実にその仕事に縛られる事を予想している。彼女は結婚よりも東京で自分の仕事とともに新たな命を育てて生きることを選んだ、と静かにその決意を語る。
 これらが現代のわれわれの状況を包括的に表現していない、と誰にも言わせないぞ!



 内田氏もこの映画には触れることなく ≪この葛藤を押し切るだけの「成熟圧」を喪ったというのが、おそらくは私たちの時代の非婚の実相なのである≫と結んでいるが、時代状況への斬りこみは相も変わらず鋭い!よ。