哲学

 <死>というものを考えていくと、結局<自分の死>というところに至らざるをえない。 しかも死んでから死とは何であったのか、と考えることはだれ一人として出来ない。 これだけは絶対に相容れない仕組みになっている。 それじゃ<自分は何か>というところから考えるしかないのだが、生きているということから<今生きている自分が自分なのである>、と言うしかなくて、それは逆にいえば死んでしまった自分はすでに自分ではないモノで、それは自分を離れた自分でない何かだ、ということになる。 でも死んでしまって自分ではなくなった自分は自分でない、ってどういうこと?・・・。
 虫のように死ぬと思えばよい、と言ったのは山田風太郎だった。 考えてみれば少し高い所から距離を置いて人に死を眺めるならば、すべての人の死も、虫の死も似たようなものだろう。 だが、生きている人がいったん死について考えるとなかなかそうは言っておれない。 また世に<犬死>という語がある。 これは犬は人と違って無駄な死に方をするものだ、というモノの見方のことだし、人は犬と違って無駄な死に方をするべきではない、という見方もその裏には挟まってくる。 じゃ人はどんな死に方が良いいだ、ということになるのだが、もっと意義のある死にかたが人としてふさわしいのだよとなる。 そうなると何だかだんだん鬱陶しくなってくるばかりだ。 人は虫けらや魚や鳥や犬などの動物と違って自我を持つ。 そこで意識された死などというものを言い出し、それに意義を与えようとする。 まったく厄介だなぁ。 そうなると前にも何度か書いたようにいろんな幻想に殉じる死などが出て来て、それがあたかも意義深いもののとなってしまう。 本当のところ、実際には虫のように死んでいるというのにねぇ。  
 でも、虫のように死ぬとは・・・。 心臓が止まり、呼吸止まり、全身の細胞はそれぞれ活動を停止してい、やがて静かに体温が失われていく。 柔らかかった有機体から硬い無機質なモノに変化していく。 その後は見たくない姿だが、モノとなった人の骸は虫や動物と同様、蛆が湧き食い荒らされる。 さらに微生物や細菌によって分解、解体され少しずつ無機質な分子の世界へと還っていく。 それは昔から<土に還る>と表現されているように自然へと循環し還っていくという節理のことなのであるのだが。  これで話は終わり・・・だが、じつにあっけないのだが・・・  
 だが、たとえ虫のように死んでいくとしても、やはり人の死は虫や動物と同じにはしたくない。 人は人の死をやむにやまれず人の死を放置することなく、人の死を弔う。 これが人を特徴づけ、これこそが人の定義とでもいえそうな気もする。
 まだ、ゆらゆら続く・・・