映画 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」

ビデオで「ゼア・ウィル・ビー・ブラッドhttp://www.movies.co.jp/therewillbeblood/という映画を見た。
 色々考えさせられる映画だった。 この映画の内容に関する感想よりも、この映画を見てオフが考えたことを書き記そうと思う。 だが、せっかく昨日仮退院したのだが身体の調子が今ひとつであるので・・・考えたことを何処まで書けるか・・・

 学生時代だったがマックス・ウェーバー著の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだことがある。 薄っぺらい本だったが、とにかく読むには読んだが、その意味を十分理解したとは思えない。 でも今でも覚えていることが二つばかりある。
 一つはヨーロッパ二中でもフランスやイタリアなどのカトリック系の国々では、産業革命が発達せず手工業に関わる職人仕事が今も生き残ったという事。 これが今でも日本の一部の女性たちの憧れとなっているブランド商品として今日でも存続している証の一つになるのだろう。 
 またもう一つは、これに対してイギリス、オランダ、アメリカなどのプロテスタント派の場合は禁欲的に労働に励むことが、自らも神に救われる信仰に通じるとされていたということ。 その結果、禁欲的な労働によって得られた資産は浪費されることもなくこまめに蓄えられ、それがさらに次の営利の追求に使われる。 そういった合理的な精神が資本主義の精神へと通じていた、とウェーバーは結論付けていた。 彼は資本主義の「精神」とは、単なる私利私欲にもとづく利益の追求ではなく、合理的な経営・経済活動を支える信仰とその精神にあったと考えたのであった。

 しかし、それらの禁欲的な労働精神が今も欧米に残っていないとは言えなくなってしまった。 ある時点から大勢の流れが営利追求目的となり、それが自己目的化するように変貌していった。 それは、何故?どの時点からなのだろうか?と考えていく。
 畑を耕すのももっぱら人力でやっていた時代は、せいぜいその労働の結果得られる報酬は自分達家族が何とか暮らせる程度の食物であったろうと考えられる。 その後馬や牛を使うようになって少しは実入りは増えたろうが、それでも気候の関係で不作の続いて十分に食べていけない年月もあったろうことは十分考えられる。 それからイギリス発の産業革命が始まり、今世紀に入りエネルギーに石油を使うようになってからは様相がガラリと変わったと考えられる。 それからは禁欲的な労働が経済活動のベースであり、それが合理的だとみなされなくなって行く・・・そうなるにはさほど時間が掛からなかったろうと考えられる。 石油を目の前にした人間が合理的であればあるだけに・・・近代化とともに少しずつ信仰も薄れて行くこと、営利追求自体が自己目的化するようになっていくこと・・・この二つの事が当然視される。 そのことをもう誰も止めることは出来なくなってしまっただろうと考えられる。
 続く