何が残るの?

 読書三昧の一日だった。 本を読み出すと他の事々の一切がお留守になってしまう。 これはある意味では致し方ないことだが、免許書の書き換えとか、高額医療費戻しの請求や、保険の請求とか事務的な手続きがいろいろ後回しになってしまう。 本を読んでいてもどこか気分が落ち着かないのだが、読みかけた本を途中で手放すことも出来ないし、それどころか読みたい本が次々に増えてきて困ってしまう。
 今日のブログより
 まず毎度紹介の内田樹氏は、<10年後の日本社会」を望見するときに、今自分が立っているこの場所「〜のような場所」が日本全体に拡がることを希望することになる>という内容のことを書いていている。
 ≪公正で人間的な社会は、そのつど、個人的創意によって、小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。 だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。 そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。 別の「気分のいい場所」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。 そしたらていねいに挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加えて、少し拡げてゆく。 迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている≫ 
 さらに、茂木健一郎氏も彼のブログ<クオリア日記>で今日以下のように述べている。
 ≪世界のすべての人と同意するのは不可能である。 何よりも、「多様性」という視点から、そんなことは望ましくない。 志向性を同じくする人と、つながっていくしかない。 共感できる友人の大切さを、しみじみと噛みしめる。 弱きもの我ら、身を寄せ合って温かさを力とするなり≫

 両者とも無意識だがまさにパーソナル・コンピューターのネットという手段が発達した今日を踏まえての発言であるだろうと思う。
 日本が今よりGDPが緩やかに下がり、壮年人口も減って内需中心の国になったときに、間違いなく復活してくるのは家族間の結びつきであろうと思う。 なぜなら個々人が現在のようにパーソナルな状態で生きていくのはきわめて不経済だからである。 しかし、以前の社会のような地域共同体や家族の結びつきがそんぐりまた復活するとは考えられない。 収入の減少で手放すものと手元に残すものの選択が行なわれるだろう。  たとえ遠距離の交通手段が公共的な移送手段となっても、携帯やPCという通信手段を最後まで人々は手放さないのではないかと思う。 大まかに言って物流などの生活圏が地域主義的になっても、情報は世界を駆け巡る時代になるだろう、という意味なのである。 
 今読んでいる「神々の沈黙」の中にも
<歴史はいきなり無縁の新規なるモノに飛び移ることによって動くのではなく、むしろ直前の過去の様々な性質からいずれかが選択され、強調されることによって動いていく・・・>
というピッタリの語があった。
 これを内田氏が以下のようにまとめて上手く言っている。 
 ≪蟹が自分の甲羅に似せて穴を掘るように、私たちは自分の「今いる場」に合わせて未来社会を考想する≫
 けだし、これは名言である。